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3月の礼拝の説教です
 

 

 

3月1日 
マーク・ハンコック兄弟  「喜んで与える人」
 聖書箇所  コリント信徒への手紙II  II Corinthians 9:6〜8

 今日は完成したクリスチャンになるための献金についての話です。

 今朝はコートのボタンをわざわざ互い違いにかけてみました。親切に直してくれた方がいました。なぜでしょうか?一つには私がみんなの前で説教するからだと思います。私たちは人の前に立つ時は身なりを正します。では、私たちのクリスチャンとしての生活はどうでしょうか? 献金はそれとは別と考えるのでしょうか?献金はプライベートなことでしょうか?

 まず、献金には「引く」面と「足す」面とがあります。

「引く」面:「不承不承ではなく」「強制されてでもなく」献金をするのです
「足す」面:「こうしようと・・・心にきめたとおりにしなさい」つまり自分で決めた分をささげるのです

 今日の説教の個所を見てみましょう。6節にあるように惜しまずに与えたいですね。また、7節にあるように神様は喜んで与える人を愛してくれるのです。惜しまず神様に与えると、8節にあるように神様から恵みをたくさん頂くことができます。献金は信仰の証明なのです。

 ではどのようにささげるのでしょうか?旧約聖書にあるように「初物」(箴言3:9,10)を「初めに」(出エジプト記13:12)捧げなければなりません。次に収入の十分の一を捧げるのです(レビ記27:30)また週の初めの日にいつも捧げる(コリントI 16:1,2)のです。

 最後に挑戦です。ルカ6:38にあるように「与えなさい。そうすればあなたがたも与えられる」のです。またマラキ書3:8〜10にあるように「これによってわたしを試してみよ、・・・必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開く・・・」のです。

 あなた自身はどうでしょうか?水戸教会の奉仕と未来を良く考えて皆と協力して喜んで与える人になりましょう?

3月8日 
小幡幸和兄弟 「和解の務め」 
聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 2:14〜18   

音声はこちらから


 今お見せしているのは、ペンシルバニア州ランカスターという町のアーミッシュの村の写真です。ご存知のようにアーミッシュの人たちは、聖書の教えに基づいた大変質素な生活をしています。次にお見せするのは、アーミッシュの小学校の写真です。いくつかの学年が一緒になった小さな学校です。

 2006年10月2日にアーミッシュの村に悲惨な事件が起こりました。拳銃を持った男が村に侵入し、小学校に立てこもった後警察がに包囲されると銃を乱射して、女の子5人を撃ち殺してに自分も自殺したのです。これが全米を驚愕させた、アーミッシュの村での事件なのです。

 実はこの事件が全米を驚愕させたのは、この事件だけではなくその後の村人の反応でもあったのです。村人たちは子供の死を村全体の大きな悲しみと捉えました。しかし、その一方でこの惨劇の被害者は5人の娘たちだけではなく、犯人のロバーツさんの未亡人や子供たちも被害者だと考えたのです。

 犯人のロバーツさんの葬儀に参加したアーミッシュの人は75人もいて、実に葬儀の半分以上の人がアーミッシュだったそうです。また、全米から彼らに寄せられた義援金の一部を被害者の家族と分かち合ったそうです。このアーミッシュの話は「アーミッシュの赦し」と題して本になりました。 

 このことから、アーミッシュの人たちはクリスチャンの信念から人を許すのだということがわかります。彼らがなぜそのようなことができるかというと、いつも聖書を読んでいるからなのです。「赦し」がいつも聖書を通して読み継がれてきたのです。

 今日のテーマは「和解」です。私に、伝道者とはつまるところ人々に「神様との和解の仕方」を述べ伝えることだといった宣教師がいますが、「和解」とはちょっとわかりづらい考え方です。「和解」を辞書で調べてみますと2番目の意味として、「争いをしている当事者がお互い譲歩し合ってその間の争いをやめる契約」という法律用語であることがわかります。今日の聖書箇所にはそのことが書かれているのです。

 似たような用語として「赦し(forgiveness):復讐権を放棄するとともに敵意の克服を誓う」「赦免(pardon)」:加害者が一切の罪から解放されること」「和解(reconciliation):壊れた関係(加害者と被害者の関係)を修復ないしは関係を新たに創造すること」で「和解」は「壊れた関係を修復すること」なのです。

 クリスチャンである私たちは、イエス様に罪を許されているのですが、いつも神様とより一層罪のない関係を作るよう努力する必要があるのです。
 これを、今年度の教会の年間テーマに立ち返ってみると、その2番目のテーマである「家族のために祈る」ためにまず、家族とのわだかまりを解消し新たな関係を作ることも必要なのかもしれません。

3月15日
ゼーン・シュワブ兄弟、 証し

音声はこちらから                                      

 2年前冗談で「日本に行ってみようか?」と妻に言ったら、「いいんじゃない」ということが発端となって、思いがけず日本に来てしまいました。周囲の人は驚きました。「なにも日本に行かなくてもいいんじゃない」と言われました。僕たちアメリカ人だから、一応英語を話せるし英語を教えてみようか、「でも、日本語話せるの?」、全然話せないのです。正直なところなんと答えていいのかわかりませんでした。

 アメリカではそれなりの職業についていたし、友人達は、マイホームの検討などをしていました。でも私達が思ったのは、皆と同じ仕事をしなければならないわけでもないし、皆と違って冒険するのもいいんじゃないかということです。

 というわけで、日本に来たのです。夜に水戸に着きましたが着いたときにはジェットラグで眠かったし、あまり良く覚えていません。しかし、翌朝朝4時に大きな地震でびっくりして飛び起きました。ベッドが大きく揺れ動くなんてことは初めての経験でした。そのとき「なんで日本に来てしまったんだろう」と後悔しました。その夜は布団に顔をうずめてようやく眠りました。

 日本では家具店での交渉や、免許の取得等がんばっていろいろなことをやり、日本語ができなくても不便なく生活できるようになりました。

 水戸に来たことを感謝できるようになったのは、ホストファミリーの星野一家やリチャードソン一家、平島さんとの交流を通じてです。星野さんの家に招待されて、タコスを食べたり、一緒に映画を見たりバネッサさんにはケーキをご馳走になったり実奈子さんとは一緒に富士山に登ったり、本当に楽しい思い出がたくさんあります。

 そうした楽しい思い出が日本に来ての最大の収穫です。このような楽しい思い出を与えてくれた皆さんには、心から感謝しています。正直なところ、日本に来たのは神様の導きか否かはわからないのです。ただ、日本にきたら面白いだろうなという気持ちだったのです。

 しかし、今私が言いたいのは、私がこのようにいい加減であったにもかかわらず神様が一緒にいてくれたということです。 私が学んだのは、私達の信じている神様の大きな導きがあって私達が生きているということです。

 みなさん、どうもありがとう。


ケティ・ブレイク 姉妹、証し 

音声はこちらから                                       

 私は、2002年にLST(Let’s Start Talking)プログラムでチームの一員として日本に来ました。そのときは、正直なところ、日本に来るのはあまり気が進みませんでした。故郷の教会のメンバーの中には日本に行った人がたくさんいたし、もっとわくわくする国に行ってみたかった。しかし、6週間の滞在が楽しかったので、帰るときにはまた日本に来ようと思っていました。

 2006年の11月大学を卒業して、将来について神様に導いてくれるように祈っていました。大学から家まで5000マイルをドライブしたのですが、あと50キロで我が家というところで、車が飛び出してきた鹿にぶつかってしまい、車が壊れてしまいました。私にとって、新しい車を買うか、日本に来るしか選択肢がありませんでした。それで日本に来たのです。

 来る前に「ケティは日本に行くべきではない、それは神の意思に反する」と言った友人がいました。しかし私には、交通事故を通じて神様が私を日本に導いているように思えたのです。その友人にはなぜ、日本に行くことが神の意思に反するのか聞くことができませんでしたが、ともかく私は日本に行くことにしたのです。

 日本に来てからの2年間は私にとって、つらいことの連続でした。まず、仲が良かった友人が「クリスチャンをやめたい」といい、それは私には大変つらい体験でした。次に妹が妊娠し、、祖母と父が続けて亡くなりました。その他にもいろいろとつらいことがありました。その中で私は神に「なぜこんなにつらいことに耐えなければならないのですか? なぜこんなに困難な中で母国から海を隔てた外国にいなければならなのですか?」と問いかけました。

 私は本当につらいことの中で折に触れ祈ってきました。そして、神様が実は私をいるべきところに遣わしてくれたことがわかりました。物事が思っても見なかった方向に進んでも、神様は導いてくれるのですね。

 ここで私が生きていること、そして多くの人に守られて居るべき場所に居ることがわかりました。

 以上を通じて言えることは、「なぜかは判らなくても、神様に対する信仰があれば一歩前に踏み出せる」ということだと思います。神様は日本に居る理由を示してくださっていますが、それは2年前には判らなかったのです。

 みなさん、どうもありがとう。

3月22日
小幡幸和兄弟 「人生の紆余曲折、神の大きな計画」 聖書箇所 創世記 50:15〜26 

音声はこちらから

  皆さんの中には劇的な人生を送られた方もいると思います。皆さんがよくご存じの作家の三浦綾子もそうした一人です。今年は三浦さんが天に召されてから十年になりますし、また代表作のひとつ「塩狩峠」のモデルになった列車事故が起こってから百年になるそうです。


 三浦さんは戦争中に学校の先生をしていましたが、一方で病気と戦後の価値観の大転換などに虚無感を覚え、「遊び呆けた」人生を送っていたそうです。そんな三浦さんの前にクリスチャンの前川正という男性が現れます。前川さんは三浦さんの将来を心配し、「綾ちゃんは、だめだ、あなたはまたそのままでは死んでしまう。」と言って路傍にあった石で自分の足を打ちつけたそうです。その時に三浦さんは前川さんが三浦さんを女として愛してくれたのではなく、「人間として」愛してくれたと感動して悔い改め、のちにクリスチャンになったそうです。

 三浦さんは、この前川との出会いがなかったら今の自分はなかっただろうと後に語っていますが、面白いことに前川正との付き合いは、彼が病に倒れなく亡くなったために途切れてしまいます。三浦さんは、後に朝日新聞の懸賞小説で「氷点」を書き作家としてデビューしますが、前川正との出会いから作家としてデビューし、その後も結核の後脊椎カリエス、直腸ガン、そして晩年はパーキンソン病にもかかわらずクリスチャン作家として大活躍をする、文字通り激動の人生を送ったのです。

 このことからわかるのは、山あり谷ありの人生でも結局クリスチャンは神に導かれて大きなことを成し遂げることができるということです。

 こうした、激動の人生を送った人に創世記に描かれているヨセフがいます。

 ヨセフはヤコブの12人の子供の末っ子で、アブラハムに大変かわいがられたため兄弟から嫉妬されます。兄弟たちに恨まれたためエジプトに行き、囚人となった後エジプトの大臣になります。そして最終的にはお兄さんたちと仲直りをします。

 つまり今日の聖句の個所にあるように、神は人間がした愚かなことを超えて目的を果たされ(20節)、あなた方を顧みていてくれる(24節)のです。

3月29日
佐々木和也兄弟 「愛について知り、愛を知り、愛に生きる」 聖書箇所 ヨハネによる福音書 8:1〜11 

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 皆さんは、この一週間をどうお過ごしでしたでしょうか。先週は明るいニュースがありましたね。そう、WBCで日本が優勝したのです。投手の松坂をはじめイチロー、青木など有名な選手の報道がありましたが私個人は、原監督に興味がありました。

 うちの子供はサッカー少年団に入っています。子供のサッカーの試合があると親たち(主として母親たち)は、時にはエキサイトした応援をします。試合を脇から観戦していると、プレイしている当の本人達よりもはるかに良く試合の全体が判るようです。つまり親たちは「サッカーについて」よく理解しているわけです。昨年年末に親子でサッカーの試合をしました。するとどうでしょう。いつも厳しい応援をしていたお母さんたちは全然動けませんでした。つまり「サッカーを」知らなかったのです。

 「〜について知る」とは知識を通じて言葉で知ることだと思います。一方「〜を知る」とは自分で体験して初めて知識になるということだと思います。

  「リューマチ」という病気があります。突然関節が痛くなる病気です。リューマチについて一番知っているのはお医者さんだと思いますが、リューマチを知っているのはリューマチにかかっている本人です。物事を知る時に「〜について知る」ことは大事ですが、「〜を知る」ことはもっと大事ではないでしょうか?

 「神について知る」ことはいろいろな教えを通じてわかりますが、「神を知る」ためにはどうしたらいいでしょうか?本当に重要なのは神様を体験を通じて知ることではないでしょうか?

 これは「愛を知る」ことでも同じではないでしょうか?私たちはいろいろな話を通じて愛について知ることができます。たとえばコリント人への第一の手紙の13章には愛について書かれています。今日の説教の個所は私が好きな個所ですが、イエス様の性格をよく現わしていると思います。神殿の境内でイエス様が教え始めたときにイエス様を訴える口実を作るために、パリサイ人と律法学者が姦淫した女の方だけを連れてきたのです。

 この個所で何がわかるかというと、律法学者たちとは違ってイエス様は表面の罪を見ずに、その奥にある女性の心を見られたのだと思います。この女性は変えられたと思います。つまり「イエス様を通じて神様の愛を知った」と思います。私たちも石を投げる前に、非難したい相手の心の内側にまず目を向けたいと思います。別な言葉で言うと、その人に共感し、その人とともに悩むことだと思います。

  この話で思い出すのはベルギーのダミアン神父のことです。ダミアン神父はお兄さん代わって、ハワイのモロカイ島に赴任しました。そこには、当時まだ治療法がなかったハンセン氏病の人たちが隔離されていました。ダミアン神父は水道を引くための工事をしたりしますが、心の中では「自分はこの人たちと違うんだ」という気持ちがあったのだと思います。当時は良い薬がなかったので、ハンセン氏病の人たちは親、兄弟、恋人から隔離され一切を遮断された世界に住んでいたのです。

  ところが、ある時ダミアン神父は自分の足にこぼした熱湯を熱く感じなかったことから、自分もハンセン氏病に感染していることを知るのです。

 愛を実践していくのはこんなにも厳しいことかもしれないのです。私も仕事でナザレ園の老人ホームで、たくさんの老人とお付き合いしています。その中に認知症の方もたくさんいいらっしゃいます。治るタイプの認知症もありますが、ほとんどの認知症は現在の医療技術では治すことができません。

 認知症の方は、最近の記憶が無くなってしまいます。なかなか、認知症になっている方の心の状態がわからないのです。認知症の方は最近の記憶がないので「昔の状態に戻っていく」のです。今どこにいるのかがわからなくなり、家に帰ってしまう方もいらっしゃいます。そのような症状が出たときに、私たちがするのはしばらくの間一緒にいてあげることです。一緒にいてあげることによって、認知症の症状が落ち着くのです。つまり、認知症の方でも自分に関心を持ってもらっていることや、自分が相手にされているということがわかるのです。

 愛は無力ではないのです。愛することにおそれは不要で、他人の目を気にする必要はないのです。そして、世界を見ながらまず足元から実行していく、愛を実践を通じて始めることが重要だと思います。


 

 

 

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