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8月の礼拝の説教です
 

 

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8月2日
恒枝 篤史 兄弟 
「ぶれない(2)」〜岩の上に家を建てる〜 聖書箇所 マタイ7:24−27

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 今日の箇所で、イエス様は、「家とその土台」という喩えをもって語っておられます。

 岩の上に建てた家は、洪水や強風が来たとき、びくともしませんでした。砂の上に立てた家も、洪水や強風が来るまでは、大丈夫だった。けれども、雨が降って、洪水や強風が来たとき、はっきりとした違いが出た。砂の上に立てた家は、いっぺんに倒れてしまった。しかも、その倒れ方はひどかった。違いは、洪水と強風が来たときに、はっきりとあらわれた、っていうんです。イエス様は、洪水や強風が吹いても大丈夫だったその理由は、「岩を土台としているからだ」、と言われました。私たちの人生には、人生の嵐、様々な苦しみが襲ってきます。けれども、土台がしっかりしていれば倒されてしまうことはない。しかし、もし砂の上に、もろい土台の上に人生を築いていると、何もない時はいいかもしれませんが、一旦災害が襲ってくると、それに耐えることができず、倒れてしまうんです。

「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(詩篇62:3)
「彼はわたしに呼びかけるであろう/あなたはわたしの父/わたしの神、救いの岩、と。」(詩篇89:27)

 ポイントは、「しっかりとした土台=神様」ということです。その家を、私たちの岩である=神様の上に建てるのかどうか、ということなんですね。

 では、もう少し深く、「岩の上に家を建てる」、ということについて、考えてみたいと思います。今日の、マタイ7章の箇所ですが、イエス様は、賢い人と愚かな人との違いはどこにあると、言っておられるでしょうか?注意してよく読んでみると、賢い人と愚かな人との違いは、みことばを「行うか、行わないか」の違いであると、教えておられるんです。

 こういう言葉が、聖書の中にあります。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)

 みことばに親しむための方法は、まず「聞く」という方法です。私たちが、信仰的にもっと成長するためには、神のみことばを「聞く」ことです。ところが、私たちは、聞いた内容の95%を、72時間以内に忘れてしまうんだそうです。たとえ、日曜日にどんなに素晴らしい説教を聞いたとしても、それを書き留めたり、考えたりしていなければ、水曜日には話した内容の95%以上は忘れ去ってしまうことになるんです。聞いた内容を思い出せないのに、どうやってそれを実行することができるでしょうか。みことばは、聞くだけでは足りません。もちろん、聞くことから始まります。ですが、ゴールは、「実行するようになること」なんです。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)

 賢い人も、愚かな人も、イエス様のみことばを「聞いた」というところまでは同じだった。でも、聖書のみことばを実行しないで、「聞いた」「読んだ」「学んだ」というところで終わってしまえば、まだ「砂の上の家」に過ぎないんだ、ということなんです。たとえ、10年、20年と礼拝に通い、メッセージを500回、1000回と聞いても、行わなければ、「砂の上の家」に過ぎないんです。神様という存在が人生の土台を据えるべき岩であるという、その素晴らしい事実を知っていたとしても、私たち自身が「地面」を掘り下げて、岩盤深く、「支柱」を差し込む努力をしなかったならば、雨と少しの増水で、たちまち家は浮いて、流されてしまいます。

 毎日毎日、神様と時間を過ごす。みことばを読み、心めぐらせる。神様のみことばを、周りの人々に行なって行く。実行する。そういう時間が長ければ長いほど、私たちの人生は強固なものになっていきます。それには、短期的な工事ではなく、日々の継続した努力が必要です。しかし、日々の積み重ねによって、神様からの恵みによって、家の土台を、砂地から岩盤にすることは可能です。ぜひ、この土台の上に家を建てましょう。

8月9日
マーク ハンコック 兄弟 
「神の子羊」  聖書箇所 ローマ人への手紙 8:31〜39

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8月16日
佐々木和也 兄弟 
「人にはどれだけの理由が必要か」  聖書箇所 ヨハネの黙示録 5:6〜9

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8月23日
恒枝 篤史 兄弟 
「お父さんといっしょにいたいんだよ」 聖書箇所 ルカによる福音書11:5-13

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 ギリシャ語で人間の事を「アンソロポス」と言います。この「アンソロポス」には、「祈る存在」という意味があると言われています。人間とは動物と違って、祈る存在である。ゆえに、私たちは祈ります。クリスチャンであろうとなかろうと、人間であるがゆえに祈ります。そして、「私たちはいったい、どのように祈るべきか」。「いや、そもそも祈りとは何か。なぜ祈るのか」。聖書はそれを私たちに教えてくれています。


 ルカ11:1からの箇所で、イエス様が教えてくれたのが、「主の祈り」です。人間誰しも祈りますが、聖書が教える祈りとは、自分で自分に向かって語りかける独り言ではありません。人間や動物や自然を祭り上げて、それに向かって呼びかける事でもない。人間が造った神ではなく、人間を創られた神様に語ること。しかも、その神を「父よ。お父さん。パパ。」と親しく呼びかけること、それが祈りだとイエス様は教えて下さったんです。 キリストを信じた私たちは神様の子どもです。子どもとして、父に祈る。子どもとして、お父さんに話しかける。それが「祈り」です。

 ルカ11章5節からのたとえ話は、その主の祈りを教えられた後に、記されています。私たちは時々考えます。あつかましく求めたら、神様に、「おまえは、しつこい。求め過ぎだ」、と怒られるんじゃないか。いろんな躊躇があって、大胆に求められない。ところが、神様と会話をする祈りの生活では、そんな遠慮は要らないんだ!と、聖書は言っているんです。私たちはもっと大胆にあつかましく、求めていい。神様は私たちの祈りが整っていて形式的であるよりも、なりふりかまわない熱心な祈りであることを願っておられます。

 今日の最後の箇所、13節に、次のような言葉が記されています。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 ここで言われているのは、子供が本当に必要としているものは、「親が共にいること」だ、ということです。どんなに素晴らしい、価値ある「物」が与えられたとしても、この「聖霊(神様ご自身)」が与えられること以上の喜びはない、と聖書は語っているのです。人間は、創造主なる神様に創られた。だから、神様が共にいて下さることに、本当の満足と安らぎを得ることが出来るのです。それが、聖霊が与えられる祝福、父なる神様がいっしょにいてくださる祝福なのです。

 私たちが本当に必要としているのは、「プレゼント」よりも、「プレゼントをしてくださるお方」。つまり、「神様」なんだ、ということなのです。もっと言うならば、実は「神様ご自身が、この上ない最高のプレゼントなんだ」、ということなのです。

 私たちは、神様を知れば知るほど、祈る者へと、変えられていきます。そして祈るとき、私たちはますます神様の愛を知っていくのです。そこに、祈りの祝福があるのではないでしょうか。この新しい一週間も、真の親である、神様に祈り、神様の愛を知っていく、その祝福に共に預かっていきたいと思います。

8月30日
広瀬 正兄弟 「罪とは何ですか」
 聖書箇所 ローマ信徒への手紙7:15〜25

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 今朝は教会を初めて訪問した方もいらっしゃいます。歓迎したいと思います。

 ローマ信徒への手紙の7:24は私にとって驚きの言葉です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」
 この言葉は、思いがけずに裁判で死刑を宣告された人の叫びのようですね。でもこれを書いているのは、クリスチャンの代表といってもいいパウロなんです。パウロはキリストと劇的な出会いをして信仰告白をしてクリスチャンになりました。クリスチャンになって20年たってからこのような叫びをしたのです。7:23にはパウロがキリストの教えを守ろうとしているが、罪が邪魔してそのような清い生き方を実行できないとあります。パウロはクリスチャンになって20年たってからそう言っているのです。このパウロの叫びはクリスチャンの叫びでもあるのです。

 私たちがクリスチャンになっても罪の奴隷であることをパウロは7:7で十戒の十番目の戒めを例として説明しています。「むさぼる」という言葉は、人間の持つ欲望のことだと思います。むさぼる欲望は人間にとっては厄介な問題です。例をあげると、わたしの趣味はデジカメなのですが、家がK’s電気の近くにあることもあって、新製品のカメラが発表するとK’s電気に行って触ってみて、すぐに欲しくなってしまうのです。皆さんにも似たような経験があると思います。「これが欲しい」という気持ちが「欲望はいけない」という気持ちを圧倒した時が、誘惑に負ける時でもあります。欲しいものがデジカメならばともかく、「他人の持ち物、財産、あるいは人の奥さん」を欲しがって、それらを手に入れるために手段を選ばないとなると深刻ですね。

 パウロの言う罪をもう少し別な角度から見てみますと、わたしの心の奥底に暗い穴があいていてその穴からサタンが誘惑の言葉をささやき続けているのだと思います。つまり、クリスチャンになってもサタンが誘惑の言葉をささやき続けるのが人間だとパウロは言っているわけです。
パウロは7:22で「「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが・・・」と書いていますが、この「内なる人」と罪との間に葛藤があるのが人間なのです。つまり罪は非常に厄介な存在なのです。

 それは何故でしょうか?それは、わたしたちの体に住みついている罪は、元をたどれば創世記3章でエバが犯した原罪にさかのぼるからなのです。創世記3章で神様は「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない。」とおっしゃいました。サタンは、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」、「その実を食べると神と同じ存在になれます。」とエバをそそのかすのです。すると「神様と同じ存在になれる」という欲望が神様の命令を乗り越えてしまうのです。

 パウロはこの罪の法則から解放される道がただ一つあると言っています。つまり「私たちを罪から解放してくださるのは、キリストの霊だ。」と言っているのです。
キリストの霊がサタンの力を圧倒する。そのために父な神は御子イエスを罪深い「肉の姿」でこの世に送り、キリストの肉を十字架に磔にすることで罪に勝利されたのです。これが福音だとパウロは言っているのです。

 しかし十字架上のイエスのあがないの事実だけで私たちが救われるわけではないのです。つまり私たちは信仰を保ち続けなければ救われないのです。

 日本人の場合には、多くの人がサタンの誘惑にあって負けてしまうのでクリスチャンがバプテスマを受けてから信仰心を保つのが平均で3年間と短い期間になっています。

 すると「キリストの霊がわたしたちの内に留まる」とはどういうことでしょうか?ヨハネ15:5に「わたしはぶどうの木。・・・人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とあります。キリストとのきずなが切れたら、わたしたちのクリスチャンの余命はわずかです。わたしたちはキリストとしっかりつながっていなければならない、中でも重要なのは、キリストの御体としての教会としっかり繋がっていることですね。そうすればキリストがわたしの中につながってくださるのです。どうか皆さんも教会につながってキリストが宿ってくださいますようになさってください。


 

 

 

 

 

 

 

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