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201081

ジョエルオズボーン兄 「私たちの予想と想像を超えて」 

使徒言行録11:15-21

 

                                                                                                        音声はこちらから

                                                                                                     (Voice file from here)

 

 使徒11章は前の2つの章の考えの上に構成されています。それは基本的に2つの部分、118節と1930節に分けられます。最初の部分において、ペテロはイエスが彼に与えた召命に対して、それが彼の理解、教え、及び経験を超越していたため葛藤しました。彼はまた他の人々の考えに対する葛藤に直面しなければならず、そして彼らの批判に対応しなければなりませんでした。同様に、私たちもそれが神様の考えと御計画から来るものである場合、自分自身や他人と葛藤する時を持ちます。ペテロの物語から、私たちは自分自身すなわち我々の考え、感情、行動に集中するよりもむしろ、神様が言われ、なさった事に集中する重要性を学びます。次に、ペテロのように、私たちにとっては自分の葛藤を認識し、公に告白し、そして更に何としても神様に従うことを決意するということが重要です。

 

 第2の部分は伝道の広がり、その伝道におけるバルナバ(及びパウロ)の役割、そしてアンティオキア教会に焦点を当てています。アンティオキア教会は若いけれども成長し、成熟している教会でした。それは多様で、福音的で、霊的及び数的に成長しており、更にそれは与え、送り出す教会でした。私はバルナバの例が鍵であり、そして教会を助ける彼の役割もまた、この成長の一つの大きな部分だと考えます。同じように、私たちは、聖霊に自分たちの生活を全て委ね、教会を委ねることを望んでいるかどうかを自分自身に問わなければなりません。聖霊に限界はありません。しかし私たちにはあります。私たちが自分自身、そして教会を委ねるとき、聖霊が私たちの期待又は想像を超えた所に導き、神様が祝福して下さることに確信が持てるようになります。

 

 

August 1, 2010

"Beyond Our Expectation and Imagination" - Acts 11:15-21

By Joel Osborne

 

Acts 11 builds on the ideas of the previous two chapters.  It is basically broken up into two sections: verses 1-18 and verses 19-30.  In the first section, Peter struggles with the call Jesus has given him because it's beyond his understanding, his teaching, and his experience.  He must also face the struggle of what others think - and must respond to their criticism.  Likewise, we have times where we struggle with ourselves and with others when it comes to God's thinking and God's plan.  From Peter's story, we learn the importance of focusing on what God said and did rather than focusing on ourselves: our thinking, our feeling, our action.  Secondly, like Peter, it's important for us to recognize and openly confess our struggle, and yet be resolved to obey God anyhow.

 

The second section focuses on the spreading mission, the role of Barnabas (and Paul) in that mission, and the Antioch church.  The Antioch church, though young, is a growing and maturing church.  It is diverse, evangelistic, spiritually and numerically growing, and it is a giving and sending church.  I think Barnabas' example is key, and his role in helping the church is a big part of its growth too.  In the same way, we must ask ourselves whether we are willing to wholly surrender our lives and surrender the church to the Holy Spirit?  The Spirit doesn't have limitations - we do.  When we surrender ourselves, and the church, we can be sure that he will take us beyond what we can expect or imagine, and that He will bless it.

 

 

 

 

2010年88

恒枝 篤史兄 「牢の中で眠るペトロ」 

使徒言行録12:1〜24  

 

                                                                                                         音声はこちらから

                                                                                                     (Voice file from here)

 

「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。」(6節)

 

ふつう、囚人は、片方の手だけが鎖につながれるのですが、ペトロは両手がつながれていたようです。そして、この二人の兵士のほかに、戸口に一人の兵士がいて、また、外側の戸にもう一人の兵士がいた。合計4人です。そして、他に三組の兵士がいて、夜の間も、ローテーション24時間体制でペトロは監視されていたのです。

 

そんな処刑前日、文字通り八方ふさがりの状況の中で、ペトロは何をしていたのでしょうか。

 

「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖につながれ、二人の兵士の間で眠っていた。」

 

なんと、「眠っていた」、って言うんです! ペトロは、なんと処刑前日、しかも処刑まで数時間という時に熟睡していた、って言うんです。この希望、この平安は一体、どこから来るのでしょうか。今日は、特にこのペトロから考えてみたいと思います。

 

August 8, 2010

"Peter in Prison"  Acts 12:1-24

By Atsushi Tsuneki

 

Look at the text, and notice the description of Peter’s security details while in the prison. The prison was guarded by 4 groups of soldiers. Peter was monitored by 24 hour rotation. So, just hours before the execution. What was Peter doing in that critical situation? …Peter was sleeping just the day before he was executed. Where does this hope and peace of Peter come from?

 

 

 

 

2010815

佐々木 和也兄 「赦し」

使徒13:3839 

 

                                                                                                         音声はこちらから

                                                                                                      (Voice file from here)

1、はじめに

 今日は「赦し」について考えてみたいと思います。8月15日、この時期、赦しとか和解とかいうことを考える良い機会ではないかと思います。

 戦争によって、日本は赦しがたいことをしたし、赦しがたいことをされました。国と国との約束によっては一応和解が成立したことになっています。

 しかし、個人の感情は違います。韓国や中国などアジアの国々から今もって戦後補償のことや謝罪について言われているのはそれをよく表しています。また、広島、長崎のことだけを考えても、原爆を落とした国に対する被爆者/遺族の感情はいまも続いていますし、これからも続くと思います。

 本当に人間に赦しは可能なのでしょうか?怒りの連鎖を断ち切ることは出来るのでしょうか?戦争によってされたことを赦せるのでしょうか。してしまったことは赦されるのでしょうか。

2、神の赦し

 それでは、聖書では赦しについてなんと言っているでしょうか。2つの箇所を見てみたいと思います。

*ローマ121921 

 聖書は、怒りや復讐心をもつこと自体は否定も肯定もしていません。こう言っているのです。怒りや復讐心は神にゆだねなさい。任せなさい。なぜなら、神はすべてをご存知で、すべてを支配しているからです。逆に善をもって悪に打ち勝つように勧めています。「赦し」の前には、持っている怒りや憤り、復讐心などを神にゆだねる、預けることが必要なのではないでしょうか。

*マタイ182135

 ここで言われていることのポイントは、一つは、赦しに制限はない、ということです。7の70倍、これは文字通りではなく、どこまでも、制限なく赦しなさい、と言われているのだと思います。

 もう一つのポイントは、赦しは無条件である、ということです。王は(神は)家来の借金を帳消しにしました。それは家来からなんの対価も求めることなく、すべて帳消しにしたのです。

 3つ目のポイントは、この赦しは無限大である、ということです。家来の借金は1万タラントンであったと言っています。その当時のヘロデ・アンティパス王の国の歳入が200タラントンだったと言われています。1万タラントンは、なんとその当時の国の税収の50年分に相当する金額になります。なんとも荒唐無稽な金額です。

 この例え話は比喩ですから、家来の借金は私たちが負っている罪であると言い換えることが出来ると思います。私たちの罪はそれ程のものだ、自分自身ではどう引っ繰り返っても返済することができないような負い目、借金があるんだ、ということを示していると思います。それを、神は一切帳消しにしてくださるのです。それも無条件に、です。こんなことはあり得ない、それくらいのことです。罪とはそれほど重いのです。そして、それ以上に、神の赦しは高く深いのです。

 なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。なぜ、赦しが可能なのでしょうか。

 私たちが忘れてはならないことは、神の赦しには犠牲が伴っているということです。イエス/キリストの犠牲があるのです。罪のない、神の子の犠牲があったのです。命の犠牲です。それが、赦しの源です。 (ローマ5611

3、本当に赦しは可能か?

 でも、本当に赦すということは人間にとって可能なのでしょうか。自分自身を赦すことは可能なのでしょうか。

 ここに、一人の人物を紹介したいと思います。私の尊敬する人の一人です。光市母子殺害事件の本村洋さんです。人を赦すこと、そして自分自身を赦すことの困難さを十分味わった、そして現在もその途上にいるのではないかと思う、そういう人物です。

 事件は、1999年4月14日に起こりました。事件の詳細はここではお話ししませんが、本当にひどい、むごい事件でした。帰宅した本村さん本人が第一発見者でした。その時の感情は私たちの想像を絶するものだったと思います。

 まず初めに本村さんを襲ったのは、強烈な自責の念だったそうです。自分に無力さ、家族を守ってあげられなかった悔しさが湧き起こって来たそうです。自分を赦すことが出来なかったのです。

 事件から4日後、犯人が逮捕されました。それは当時18歳の少年でした。逮捕後、本村さんの中には、新たに違った感情が湧き上がって来ました。犯人に対する憎しみです。

 事件から一年後の3月、山口地裁で無期懲役の判決が出されました。判決が出されたその当日、本村さんは記者会見を行いました。その中で一番印象に残っている言葉があります。感情を押さえ切れずにこんなことを言ったのです。「遺族だって回復しないといけないんです、被害から。人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには…、死ぬほどの努力をしないといけないんです。」そう言ったのです。それを聞いたとき、胸が押しつぶされそうでした。そんな気持ちを、どうしたら解決できるのか、自分には安易なことは言えないな、そう思いました。

 その後の裁判の推移は皆さんご存知の通りです。

 本村さんのことを思うと複雑な思いがします。自分自身を赦すことが出来たんだろうか、犯人を赦すことが出来たんだろうか、そして優しさを取り戻すことが出来たんだろうか。

 赦しには痛みが伴います。本村さんはそう教えてくれます。赦しには時間がかかる。そう教えてくれます。完全に赦せるだろうか?そんな疑問も湧いてきます。

5、まず神が赦してくださった。信仰によって。

 人を赦す、そして自分自身を赦すということ、和解するということは簡単なことではありません。困難を伴います。時間がかかります。転んでは起き、起きては転ぶの繰り返しかもしれません。

 しかし、もういいんだよ、十分だよ、あなたの痛みや悲しみ、苦しみは分かっているよ、と言ってくださる方がいると知ったなら、そんな方がいると信じるなら、私は必ず赦すことができると確信しています。なぜなら、その方は、自分の命を捨てるほどに私を愛してくださる方だからです。赦してくださる方だからです。この世の中にたった一人でもいい、それほどまでに自分を愛してくださる方がいる、そう信じるだけで勇気が出ると思いませんか?

 本当の意味での赦し、和解は、そんな方がいるんだ、そう信じることから始まると思います。

 

August 15, 2010

Forgiveness  Acts 13:38-39

By Kazuya Sasaki

(English version: Later)

 

 

 

2010年822

恒枝 篤史兄 「バルナバのように」 〜信じることこそ、人を育てる〜

使徒言行録15:36〜41

 

                                                                                                         音声はこちらから

                                                                                                      (Voice file from here)

 

今日の聖書箇所、使徒言行録15章の最後の部分に、パウロとバルナバの激しい衝突が記されています。

 

そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。(3940節)


「意見が激しく衝突し」とあります。別行動をとることが解決策となったようですから、かなり激しい議論があったのでしょう。彼らは別々の道をとることとなりました。まさに、一難去って、また一難な訳ですが・・・。バルナバは、マルコなんて見捨てて、パウロといっしょに宣教旅行に行った方が良かったのではないでしょうか。バルナバは、どうしてそこまでマルコにこだわって、マルコを連れて行きたかったのでしょうか。

 

この問いに答えるために、バルナバが、まずどういう人物であったのかに、焦点をあてて考えてみたいと思います。そして、このバルナバという人物から、特に「人を育てる」という視点で考えてみたいと思います。

 

 

August 22, 2010

"Barnabas, the Encourager"  Acts 15:36-41

By Atsushi Tsuneki

 

At the end of Acts 15, Luke wrote a major dispute between Paul & Barnabas. Out of a crisis, another one waits. Paul and Barnabas began to make plans to revisit the churches they established but they had a major dispute. Barnabas said, "Let's take John Mark with us again." But Paul said that Mark had let them down the last time and he was not going to take Mark. The two best friends disagreed so strongly that Paul chose another traveling partner, Silas, and two men went their separate ways.


Wasn’t it better for Barnabas to abandon Mark and go to the mission trip with Paul? Why did Barnabas want to take Mark so badly? So now, we like to focus on what kind of person Barnabas was. And we’d like to focus on especially Barnabas from the viewpoint of “nurturing others.”

 

 

2010829

賛美礼拝(恒枝兄)

Praise Worship (by Atsushi Tsuneki)

 

                                                                                                         音声はこちらから

                                                                                                       (Voice file from here)

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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